太鼓勇め歌  伝法考1 2 3 4

  「行こか戻ろか」   住吉大社は、住吉三柱(みはしら)の大神と神功皇后とを併せてお祀りし、「住吉四社大明神」と呼ばれました。社殿前に架かる太鼓橋は本称、「反橋(そりはし、それはし)」。「高燈籠(とうろう)」とともに、住吉大社の象徴であり、西を望めば大阪湾の絶景が広がっていたそうです。古くは「住吉津(すみのえのつ)」として、また和歌にも「岸の姫松」と詠まれたこの場所は、白砂青松の浜辺に波が打ち寄せる名勝でした。
 さて、「上るよりおりるがこわい」この反橋。もともと神様のための通り道で、今となっては人が渡るだけでお祓いになると言われています。

  「えじやないか」   幕末の社会騒動、ええじゃないか。人々は風刺や駄洒落を交えながらこれを連呼しました。例えば、「かわらけ」は俗語で下毛のないこと。かわらけ同士が喧嘩して、毛が(怪我)なく目出度し、「えゝじやないか」。


  「稲荷の鳥居」   「赤」は魔除けの色であり、古くから神社仏閣に用いられて来ました。丹(に)塗りの社殿が鮮やかな、伏見稲荷大社はその代表格。御神徳をも顕して、「稲荷の朱(あか)」と敬われています。狐の神様として信仰されるのは、本殿中央に祀られる宇迦之御魂大神の別名、御饌津神(みけつのかみ)が狐の古名「けつ」に繋がるからとか。本地仏、荼枳尼天(だきにてん)の姿で跨る白狐よりとか。
 この、「稲荷五社大明神」。今でも東寺の鎮守として神仏習合が残っていたり。また、ひとたび稲荷山を登れば往古の霊峰信仰であったり。その参道に立並ぶ千本鳥居は、日本の誰もが知るところであります。

  「下関」   角力取節といへバ「おゝせおせおせ下の関迄ハと諷ひ・・・。徳川太平の御代は、海運興隆の時代。日本海から大坂へと向う北前船は、河村瑞賢の開いた西廻り航路が一路、いざ対馬海流に抗して下関を目指しました。
 押さば忍(お)せ、引かば押せ、おゝせ押せ押せ下之関、是れぞ角力(すもう)の極意成り。

  「長吉」   二人の「長」の字に因んだ、『双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)』。いっぷう目に付くこの演目は摂津名所図会のなか、人で賑わう道頓堀の芝居小屋にも掲げられています。米屋の段では主人公のひとり、放駒長吉を憂う姉おせきの人情が見どころ。もうひとりの主人公、濡髪長五郎とともに東錦絵に描かれました。

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