太鼓勇め歌  伝法考1 2 3 4

 祭太鼓の唄  商都大阪の夏祭には、溌溂たる生氣が町から町へ流れてゆく。 枕太鼓や蒲團太鼓の音が、ドデドンドンと鳴り響けば、祭り客の餐應に忙しい臺所のおさんどんまでが、お吸ものの煮つまるのも忘れて表へ飛出す。 この蒲團太鼓には美裝した子供が乘り込み、拍子に合せて、次の樣に繰返し囃すのである。 (中略) 尚最後の歌は七月十七日の御靈神社夏祭に、瓦町三丁目の子供たちが、緋縅の具足に身をかためて武者行列を繰出し、翌十八日夜、各自に提灯を持つて神社に參拜し神樂を奏する場合にも歌はれたものである。(東區史 第四卷)

稻荷の鳥居に 猿の尻
尻と尻との 押しあひで
押せ押せ押せ押せ 押オせ押せ
おせきの弟は 長吉で
ちよちちよちあばゞの おつむてんてん
てんてん天滿の はだかんぼ
行こか戻ろか 住吉の
住吉濱邊の 高燈籠
上つて沖を 眺むれば
七福神の 樂遊び
中にも夷子と 云ふ人は
金と銀との 釣竿で
黄金の針で 鯛釣つて
釣つたお蔭で 嬶もろて
もろたお嬶が かわらけで
隣のお嬶も かわらけで
かわらけ同志が 喧嘩して
どちにもけがなきや えぢやないか
エーラ  ホーラ  エヤサツサ

 最後の掛け声はそれぞれ小異し、「エーヤホーヤ」、「ヘーヤホーヤ」、「ヒーヤフーヤ」、「エイラガホー」などさまざま。

牡丹に唐獅子 竹に虎
虎追ふて走るは 和籐内
わとないお方に 智惠かそか
智惠の中山 せいがん寺
誓願寺の和尚さん 坊さんで
ぼんさんタコ食て へとついた
その手でお釈迦の 顔なぜた
お釈迦もあきれて 飛んで出た
エーラ  ホーラ  エヤサツサ

 「ぼんさんタコ食て」以下を、旧東成郡では、「ぼんさんタコさん入道さん 卵のふわふわあがりんか きょうは精進もったいない」とうたい、この方が古い形かも知れない。なお、「へと」は反吐、「なぜた」は撫でた、の大阪方言。

近江の石山 秋の月
月に叢雲 花に風
風の便りは 田舎から
唐をかくせし 淡路島
縞の財布に 四五拾兩
五郎十郎 曾我のこと
まことにめでとう そうらいし
雷子は 嵐の三五郎で
ゴロゴロ鳴るのが 雷で
エーラ  ホーラ  エヤサツサ

 もともとはお稲荷さんの祭礼でみこしをかつぐときの歌で、明治後期ごろから他の神社の夏祭りで、大人も子供も唱和するようになったという。





 『皇都午睡』 (初編)

 又江戸にては尻取附廻しと云、京摂にては跡附と云有、句の下乃詞を次の句の上に置事なり

 江戸
上畧 六じ屋の口を のがれたる
多るは道連 世は情
那さけの四郎 高綱で
津なでかく縄 十文字 下畧

 上方
稲荷の鳥居に 猿の尻
の志里のしりと 上下で
下の関まで おゝせおせ
お関が弟ハ 長吉で
長吉長吉阿ばゞに 津むりてんてん
天々天満乃 裸巫子
み古か戻ろか 住吉参り
参り下向の 足休め
すめの判官 盛久は
久松背古にか 冷かろ
多か櫓は船頭の 松右衛門
惠もん繕ひ 正座する
するがに浅間 冨士乃山 下畧 那ど也 (上之巻 尻取跡付)

 今浪花稲荷祭禮に御輿太皷を舁掛声となるハ

近江に石山 秋の月
月に村雲 花に風
風の便りを 田舎から
唐をかくせし 淡路島
嶋の財布に 四五十両
十郎五郎は 曽我の事 下畧 (同 粘頭續尾)





 『守貞漫稿』 (卷二十七)

 厄拂 京坂ハ節分ノ夜ノミ來ル、江戸モ古ハ節分ノミナリシガ、文化元年以來、大卅日、正月六日、十四日ニ來ル、 追儺ノ豆、大坂ハ年數ヲカゾヘ一錢ヲ加ヘ、白紙ニ包ミ與フ、江戸ハ十二錢ヲ添ルナリ、又京坂ハヤクハライマシヤウト云、江戸ハオンヤク―――ト、御字ヲ付ル、厄拂ノ辭ノミ、音節及ビ文句トモニ三都相似タリ、蓋文句ハ年々種々アリ

アヽラ メデタイナ メデタイナ
ダンナ 住吉御參詣
ソリ橋カラ西ヲ ナガムレバ
七福神ノ 船アソビ
中ニモ夷ト 云人ハ
命長柄ノ 棹ヲモチ
メギスオギスノ 糸ヲツケ
金ト銀トノ 針ヲタレ
釣タル鯛ガ 姫小鯛
カホドメデタキ オリカラニ
イカナル惡魔ガ 來ルトモ
此厄ハラヒガ ヒツトラヘ
西ノ海トハ オモヘドモ
チクラガ沖ヘ サラリ

或ハ役者名盡シ、魚盡、何盡ナド種々ヲ云 (古事類苑 歳時部)





 『民謡の和泉』

すみよしの
四社の前なる そりはしに
中の高さへ こしかけて
沖をかすかに みはらせば
八幡太郎の 一の船
船は白金 櫓は又黄金
綾や錦の帆に
きんらんどんすの 幕を張り
中に十二の 船子供
おもふ港へ いそいそと

目出たい所は ちぬの海
沖を眺めりや 七福神の舟遊び
金のかけばり 銀のしづ
糸は錦紗の まがへ糸
大鯛小鯛を 釣り上げて
飲めよ大黒 歌へよゑびす
飲んで喜ぶ 福の神





 『當世風流 地口須天寶』

 サアサアこれで連中はそろふた例のしりとりの付まはしにいたそふサアサア宗匠題を御出し被成ませといふ聲に一間より紙子の羽織ほうろく頭巾やりひぢにて宗匠出られ扨々何れも御出精でゑす題をしたゝめておきましたと渡さるれば皆々立寄り披き見れば

 はじめましよ
めましよを見れば成そな目もと  目もとあふみの國ざかひ
ざかひちがひのお手まくら  まくらの花はあすかやま
かやま町には藥師さま  しさまのかち路はりまがた
まかたの名方ふたゝびぐわん  びぐわん柑子たちばな
ばなかさんさき幡隨院  ずゐん佐々木が乘かつた
かつた峠のとびだんご  だんごの節句はかしわもち
わもち無沙汰に塵ひねる  ひねるの城にはおさかべとの
べとのさん大權現  んげんの伊久に助六じや
六じやの口をのがれたる  たるは道づれ世はなさけ
なさけの四郎高綱で  つなでかく縄十文字
十文字の情にわしやほれた  ほれた百までわしや九十九まで
九までなしたる中じやもの  じやもの葵の二葉やま
葉やま買より桃買てくやれ  くやれくやれは風引ひた
ひゐた子がをしへて淺瀬をわたりや  たりやたりやひゐひゐ風車
くるま通ひの通りもの  りもの煮たもわしや知らぬ
しらぬ醉狂すつぱぬき  ぱぬきの皮の腹つゞみ
つゞみながらに四ツ手あみ  であみがしらの喧嘩づき
くわづき八日は御たんじやう  んじやう峠の孫じやくし
しやくし如來のゑんにち  んにち墨は印ばんや
ばんや正月宿おりじや  おりじや双六おひまはし
まはしの干物ちんからり  からりといふて暮のかね
のかねが打たる銘のもの  のものおゑたはよきのはも立ぬ
立ぬの四郎は猪しゝに  しゝに正しき家筋じや
すじじや身をくふ世のならひ  ならひちがひの御手まくら
まくら千人めあき千人  千人問答ひらがなか
かなかのやゝはもふ十月  とつきもしらぬ山中に
なかにだいばは付ものだ  ものだの森の狐をうかそ
うかそ中山せいがんじ  がんじ元來殺生せきか
せきか太平國土安穩

 のんとこれで卷はおさめに致しましよ天下太平國土安穩とおさまるは此上もない目出たい事 (尻取の卷)





 『上方叢書第貳篇 大阪の夏祭』

 なほこの蒲團太鼓の由來として 「太鼓勇め歌」 のうちに詠み込まれてある章句を擧げれば―――


そもそも 太鼓の始りは
昔むかし その昔
神代の昔 お伊勢樣
天の岩戸へ 隱れましよ
その時 末社の神逹は
岩戸の前に 集まりて
笹に鏡を つり下げて
多くの鷄を 鳴かしける
猿田鈿女の 兩尊
太鼓を叩いて 舞ひ給ふ
一入 お氣に入らせられ
岩戸を再び 出で給ふ

これぞ神樂太鼓(かぐら)の はじめなり


エイヤ  エイヤ  ヨササツサ


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